太陽光エネルギーの利用とその限界
佐藤しんり

 現在はまだ実現していないが、光触媒と太陽光によって水を光分解し、クリーンなエネルギー資源である水素を得ることが可能になるかもしれない。筆者は光触媒(Pt/TiO2)による水の光分解の発見以来、太陽光エネルギーの利用に関心を持ち、文献をいろいろ調べてきた。
 そこでわかったことは、われわれが利用できる太陽光エネルギーの量は、一般に考えられているほど多くないということだった。最近、調べた結果をまとめて、ある文集に標題の文を寄稿した。以下はそれに若干、手を加えたものである。
(Last updated 2012.4)
§1 なぜ太陽光エネルギーか

 現在、われわれが主に使っているエネルギー資源は石油(原油)、石炭、天然ガス、ウランなどの地下資源エネルギーである。これらは使えばやがて枯渇する運命にあり、埋蔵量は年々減少している。現在のペースで採掘を続けたとき、今後採掘できる年数を示す可採年数は、原油 約42年、石炭 約122年、天然ガス 約60年(以上、2008年推計)、ウラン 約100年(2007年推計)とされている(エネルギー白書2010より)。
図1 原油価格の推移
 世界中の石油の需要は毎年、伸び続けており、もし原油採掘量がピークになれば、その後は供給不足となり、価格が高騰することは間違いない。最も楽観的な予測でも世界の石油生産のピークは2040-2045年であるとされている。現在すでにピークに達したとの見方もあり、2007年から2008年にかけて起こった原油価格の高騰は、これを見越した金融投機の結果であろう。その後、いわゆるリーマン・ショック不況に伴い原油価格は下落したが、景気の回復とともに再び上昇し続けている(図1)。将来、必ず値上がりするに違いない原油は、これからはいつでも金融投機の対象となるだろう。石油ピーク以前でも原油価格の高騰は再び起こりうるのだ。
 石油が枯渇したとき、いやそれ以前に石油が不足して価格が高騰したとき、石油に代わるエネルギー資源はあるのか。これは第一次オイルショック(1973年)以来、全世界の検討課題であった。こうした中で太陽光エネルギーは、二酸化炭素などの温室効果ガスを排出しない「再生可能」なエネルギーと考えられ、地球温暖化防止の切り札として大きな期待が寄せられている。
 しかしながら、地球上で太陽光エネルギーをどれほど利用できるかという見積もりには、人によって大きな違いがある。世界中の1次エネルギー供給量(2000年)の20倍以上あるという楽観論から、10%にも満たないという悲観論まであるのである。なぜこのような大きな違いが生じるのであろうか、詳しく検討してみよう。
§2 地球に到達する太陽光エネルギー

1.太陽光エネルギーの量

写真1 某太陽電池メーカーの新聞広告
 地球に吸収される太陽光エネルギーの量は約1.2×1014 kWであり、現在、人類が消費している1次エネルギー量の約1万倍である。これを聞いてすっかり安心する人がいる。太陽光エネルギーのほんの一部を使うだけで、人類の使うエネルギーは間に合うと思ってしまうからだ。
 ある太陽電池メーカーの広告に「地球に降り注ぐ、わずか1時間の太陽エネルギーで、世界中が1年間に消費するエネルギーをまかなえます。」と書かれてあった(写真1)のは、その一例である。はっきり言えば、これはまったく誤解なのだ。「1時間の太陽エネルギーが、1年間の消費エネルギーに等しい」というのなら正しいが、それでまかなえるというのは正しくない。
 地球に到達する太陽光エネルギーのうち、緑色植物の光合成に使われるエネルギーは、その約0.04%(約4×1010kW)と見積もられる。光合成に使われるエネルギー量で見れば、2008年に全世界で消費された1次エネルギー量の3倍程度でしかない。緑色植物がなぜこれだけしか太陽光を利用できないのか、それにはそれなりの理由がある。むしろ問題は、植物の光合成量の三分の一にもなる大量のエネルギーを消費し、光合成に使用される二酸化炭素(CO2)に匹敵する量を排出していることにある。そのため、空気中の二酸化炭素濃度が上昇するのだ。
 地表に到達する太陽光エネルギーは、季節と緯度によって異なる。日本の中心付近で晴れた夏至の正中時で1kW(860kcal/h)/m2ほどである。夏至以外の日、朝夕や曇の時はさらに少ないから、平均して利用できる太陽光エネルギーはかなり希薄だ。日本の全国平均日照時間は、年平均5.4時間/日にすぎない。希薄なエネルギーを広い面積から集めて大きなエネルギーにするには、エネルギーが必要になる。すなわち、エネルギーの損失がある。これはエントロピーの問題なのだが、理解できない人が非常に多い。
図2 太陽光のエネルギースペクトル
 さらに、光エネルギーを電気など動力源となるエネルギーに変換するには損失があり、また大規模に利用するには設備等に多額の経費が必要になる。太陽光エネルギーの利用にあたっては、これらを総合的に考えなくてはならない。

2.太陽光のエネルギー分布
 光のエネルギーEは次式によって与えられる。
    E(eV) = 1240/波長(nm)
すなわち、光のエネルギーは波長によって決まり、波長が短いほどエネルギーが高い。図2に太陽光のエネルギー分布を示した。可視光領域(波長0.4〜0.7ミクロン)のエネルギー量が多いことがわかる。これは人間の視覚が光の強い波長領域を使うように進化した結果であろう。
 太陽光エネルギーを利用するにあたっては、強度の大きい光の波長領域を使うとともに、エネルギーの高い光が効率よく他のエネルギーに変換されることが重要である。ところが実際には、後に書くように、このどちらも難しいことなのである。緑色植物の光合成にしても、一部の波長領域の光しか使っていないので、エネルギー変換効率が低いのだ。
§3 太陽光エネルギーの利用形態、利用効率および量

1.光エネルギーの利用効率

 光エネルギーを利用するには、光のまま利用する方法と熱として利用する方法がある。それぞれについて利用効率の見積もり方を説明しておこう。
 太陽光を照明として利用するのも光利用の一形態だが、ここで対象とするのは、光の化学エネルギーへの変換と光の電気への変換である。前者はすなわち光合成であり、光エネルギーを炭水化物などの化学エネルギーに変換する。後者はいわゆる太陽電池であり、光エネルギーを電気エネルギーに変換する。
 緑色植物の行っている光合成は、水と二酸化炭素から炭水化物と酸素をつくる。できた炭水化物と酸素を反応(燃焼)させると発熱するから、その発熱量は太陽光エネルギーが利用され変換された分に相当する。したがって、光合成の光エネルギー利用(変換)効率は、植物が吸収した太陽光エネルギーと生成物の(生成)エネルギーの比で与えられる。
 一方、太陽電池はシリコンなどの半導体中の電子を光で励起し、励起されたエネルギー分を電気として取り出す。電気エネルギーを電力量(=電流x電圧x時間)で表わすと、太陽電池の変換効率は、入射した太陽光エネルギーの総量と発電した電力量の比となる。
 光を黒体に吸収させるとほぼ100%の効率で熱になる。熱をそのまま温水や暖房として利用する分には問題はないが、熱を動力に変換する効率は熱力学の制約を受ける。これについては後に述べる。

2.光合成植物(バイオマス)の利用

 光合成によって炭水化物に変換される太陽光エネルギーは、@反射や透過などによる損失、A光合成に使われる波長領域が狭く、さらに太陽光の最大エネルギー波長から外れていることによる損失、B植物自身の呼吸による消費、などを考慮すると、最大6%程度と見積もられている。実際の光合成効率が最も高いのはイネ、トウモロコシ、サトウキビなどで、最適な生育条件では最大5%に達するという。しかしながら、光合成効率は植物の種類や生育条件で大きく異なり、平均すれば農作物で1%以下、陸上や海中の植物(プランクトンを含む)で0.1%以下と言われている。しかもこれは生育時の値であり、年間を平均すればさらに低い効率になる。
 石炭の利用が始まる以前、ほとんどすべてのエネルギーはバイオマスであり、その生産性が低いために人口の増加や工業生産は抑制されていた。産業革命後、食糧生産が飛躍的に増加したのは、光合成収率を高める技術が生まれたからではない。化石燃料を使って工業生産された肥料や農薬による農作物収量の増加、機械力の導入による耕地面積や灌漑設備などの拡大と省力化のためである。したがって、現代のバイオマスとくに農作物には、太陽光エネルギーだけではなく、他のエネルギーが大量に投入されていることになる。
 
表1 農産物のエネルギー収支
農業の形態 エネルギー量の比*
低生産性農業 20
集約農業 2
家畜生産 0.2
温室栽培 0.02
*注)産物のエネルギー/投入エネルギー
出典:D. Hall, Solar Energy, UK-ISES(ed), London(1976)
 生産に投入されるエネルギー量に対して、得られる産物のエネルギー量の比(実効エネルギー収率とかエネルギー係数と呼ばれる)は、農業の形態によって大きく異なる(表1)。この表で低生産性農業とは、機械化される以前の農業形態であり、投入されるエネルギーはほとんど人力や畜力なので、実効エネルギー収率は高い。しかし、人件費が高いと農産物の価格は高くなる。集約農業は、アメリカ型の機械化された大規模農業で、投入する石油エネルギーが多いので、その2倍程度の農産物エネルギーしか得られない。しかし、現在は石油の価格が安いので、農産物の価格は安い。ここで注意しなければならないことは、集約農業の農産物価格は、石油が値上がりすると値上がりすることだ。いつまでも安いわけではない。すでにアメリカ農業の収入は必要経費を下回っており、政府が補助金でカバーしている。
 日本の農業は、人件費が高く、集約農業でもないので、農産物の価格が高い。それで海外から安い農産物を輸入し、その食料輸入率は60%以上にもなっている。輸入先は人件費の安い東南アジアの国と集約農業の国で、なかでも農業に対する補助金のあるアメリカが主である。
 バイオマスをエタノールに変換し、ガソリンに混ぜて使うというアイデアは昔からあり、近年、原油価格の値上がりとともに実際に行われるようになってきた。農産物を石油に代わるエネルギーにする場合、当然ながら価格の安い集約農業の農産物を使うことになる。そのため、生産物の実効エネルギー収率は2よりもさらに下がることになる。
 すなわち、トウモロコシやサトウキビからエタノールをつくるには、変換の損失があり、設備や運転に石油エネルギーが必要になるからだ。したがって、エタノールとして得られるエネルギーは投入したエネルギー総量と同程度か下回る計算になり、二酸化炭素排出の削減効果もなくなることになる。
 さらにわが国の場合、エタノールの生産コストはガソリンのそれより高い。それにも関わらず補助金を出してまでエタノールをガソリンの替わりにしようとするのは、まったく理解できない政策だ。
 最近、アメリカのトウモロコシがエタノールにするために値上がりし、世界の食糧事情に大きな影響を与えていることも問題である。わが国の家畜の飼料はアメリカからの輸入に頼っている。飼料となるトウモロコシが値上がりすると、わが国の畜産・酪農業は成り立たない仕組みになっている。
 農産物ではなく廃木材や雑草をアルコール生産の原料にすればよいという話もある。しかし、これらのバイオマスは光合成効率が低い上に、低カロリーでアルコールへの変換収率が悪いので、実用にはならないだろう。その他のバイオマス利用には、家畜の糞尿からメタン生成、廃植物油の自動車燃料化などがあるが、量が限られている。
3.太陽熱発電
 光を熱に変換する効率はほぼ100%だが、熱を動力として利用するには、熱機関を使って動力に変換しなくてはならないので、熱力学(第2法則)の制約がある。すなわち、(1)他のエネルギーを使わずに低温の熱を集めて高温の熱源にすることはできない、(2)外燃機関、内燃機関を問わず、熱機関が仕事をする(動力となる)効率は、高温の熱源と低温の熱源(排熱)の温度差が大きい
) 熱機関の効率の上限=(TH -TL)/TH =1-TL/TH
TH:高温熱源の絶対温度
TL:低温熱源の絶対温度
絶対温度=セ氏温度+273
ほど高い()、ことである。なお、熱力学第2法則は熱エネルギーのみでなく、「エントロピー問題」としてエネルギー全般と環境問題に関係する。しかしながら、エントロピーの概念は一般にはなかなか理解されにくい。
 熱力学から言えることは、熱はもっとも「質の低い」エネルギーだということである。保存できないし、他のエネルギーへの変換効率も低い。ちなみに、熱を常温20℃に捨てるとすると、熱機関の最大仕事効率は、100℃の熱源で21%、500℃では62%となる。しかし、摩擦による損失や熱源や熱機関の断熱が難しいことなどから、実際の効率はこれよりさらに低い。例えば、蒸気機関は6〜11%、ガソリンエンジンは20〜30%、ジーゼルエンジンは28〜32%、火力発電は平均約40%の効率でしかない。
写真2 タワー式による太陽熱発電
 太陽熱を動力源として利用する典型は太陽熱発電である。太陽光で暖めた水で蒸気機関を動かすのだが、効率を上げるには光を集めて高温を得る必要がある。その方式には、平面鏡を用いて円形広場の中央部に設置された集熱器に太陽光を集中するタワー式、曲面鏡を用いて鏡の前に設置された集熱パイプに太陽光を集中するトラフ式などがある。かつてアメリカで大規模な実証試験が行われたが、採算が合う結果にはならなかった。日本でも1981年に四国の仁尾町(現・三豊市)で、NEDOによるタワー式の実証試験が行われ、「日照時間の少ない日本では太陽熱発電は実用にはならない」という予測を裏付ける結果になった。
 太陽熱発電の問題点は、太陽光エネルギーが希薄であるために、集熱に多大な設備と経費がかかることだ。太陽光を一点に集めるためには、多くの鏡を正確に連動させなければならず、これは集光面積が大きいほど難しくなる。したがって、太陽熱発電の設備と運転は、大規模にしても経費削減にあまりならないし、電力単価もあまり下がらない。また、天候に左右されて発電が断続的になり、効率が下がることも重大な欠点だ。

4.太陽光発電
 太陽光発電にもいろいろな方式があるが、実用化されているのはpn接合型シリコン太陽電池による発電である。エネルギーが約1.1eV以上(波長1.13μm以下)の光を利用することができるので、太陽光の近赤外から可視光領域の光を利用できる。しかし、1.1eVより高いエネルギーの光を吸収しても原理上、出力電圧は変わらないので、1.1eV以上の光エネルギー分は無駄になる。そのためシリコン太陽電池(単接合型)の理論的な最大変換効率は30%以下となる。ちなみに、市販されている多結晶太陽電池の効率は10-15%である。より効率の高い太陽電池もあるが、価格が高すぎて一般用にはならない。
 シリコン太陽電池の寿命は約20年とされる。この間の総発電量は、製造から廃棄までに投入されるエネルギー(ライフサイクルエネルギーといわれる)の約20倍になるという。しかしこれを考慮しても、太陽電池の価格が高いために、発電した電気の価格が高くなることが普及の最大の妨げになっている。
写真3 屋根に取り付けられた太陽電池パネル
 シリコン太陽電池は当初、製造が難しい単結晶シリコンを使っていたので価格が高かった。その後、製造がより簡単なアモルファスや多結晶シリコンを使えるようになってからシリコン太陽電池の価格はかなり下がった。それでも価格(設置費用込み)は50−60万円/kWもする(2012年現在)。したがって発電コストは30〜40円/kWhとなる。これは風力発電の発電コスト10〜14円/kWhより高い。
 ちなみに、わが国の一般家庭(家族四人)で消費する電力は平均18.5kWh/日だという。
 2003年から自然エネルギーを使って一般家庭で発電された電力を電力会社が買い上げるシステムができた。しかし、補助金なしでは太陽電池の寿命以内に設備費を回収するのは難しいので、国の補助金制度が2005年度に終了して以来、国内設置量の伸びは止まってしまった。これではまずいと、政府は2009年度に補助金(約10%)を復活し、さらに、太陽光発電で生じた余剰電力を現在の2倍の価格で買い取ることを電力会社に義務づける「エネルギー供給構造高度化法」が成立させた。太陽光電力を買い取った電力会社は、電気料金を値上げすることによって、その費用を広く一般家庭に負担してもらうことになる。
 太陽電池の製造設備とその運転には大量の石油エネルギーが投入されている。今後、技術の進歩や量産規模の拡大で価格がさらに下がる可能性があるとしても、原油価格が上がれば製造コストが上がることは避けられない。また、原料となる高純度シリコンは資源量が少なく、品薄状態が続いている。技術革新と大量生産で価格が大幅に下がるようなものではない。経産省は太陽光発電の2020年までの導入量目標を「現在の20倍」に引き上げ、太陽光発電システムの価格も3〜5年で半分程度に下がると予想しているが、実現は難しそうだ。

5.光触媒による利用
 緑色植物の光合成に中心的な役割を果たしているクロロフィルは、一種の光触媒であるから、バイオマスは光触媒の産物であるといえる。しかし、ここでの光触媒は人工的なものである。
 光触媒による光エネルギーの化学エネルギーへの変換、すなわち水の光分解による水素製造については、このホームページで詳しく書いているので参照していただきたい。現在の段階では光触媒は太陽光の可視光領域をほとんど利用できないので、太陽光エネルギー変換としての実用性はまったくない。将来、実用になることを期待するのみである。
§4 太陽光エネルギーは石油代替エネルギーとして使えるか

1.わが国の太陽光エネルギー利用可能量

 わが国の場合、バイオマスの利用は量としてわずかでしかないし、太陽熱発電も実用にならないことが実証されている。頼りになるのは、かつて太陽電池生産量が世界一であったことからも、太陽光発電であろう。
 太陽電池を一般家庭に導入するとすると、最低限3〜4kWは必要であり(実際の消費電力はもっと多い)、その費用は2012年現在160〜200万円(約3kWで)かかる。補助金はその10%程度だから、相当な出費を覚悟しなければならない。そしてこの投資を回収するには、約20年という長い年月がかかる。さらに、太陽光発電は直流だから、これを一般家庭用の交流に変換する装置が必要で、それらのシステムの保証期間は通常10年である。それ以後の故障修理は購買者の負担となる。これらを考えると、経済的に余裕のある人しか太陽光発電装置を購入しないだろうから、その普及は限られよう。
 2009年に太陽光電力の倍額買い取り制度が発足したことで、一般家庭への導入量が増えると期待されている。しかし、売ることができるのは余剰電力だから、その恩恵を受けるには1戸あたりの発電量を増やさねばならない。それだけの投資をする人がどのくらいいるのかが問題だ。また、太陽光発電装置を持てる高額所得者に対して、持てない低所得者は高い電気料を負担しなければならない。これはいかがなものかという議論は残る。
 経済的な問題は度外視して、日本国内で太陽光発電を最大限、導入するとすればどの程度になるだろうか。主な建屋の屋根や壁面、遊休地に太陽電池を設置することができれば、年間総発電量は約2,200億kWhとなるという試算がある。これは日本の年間総発電量(2007年)の約21%に相当するが、1次エネルギー供給量と比較すると約9%にすぎない。
 太陽電池の設置面積をさらに増やすには、日本の場合、海上に設置するしかない。海上基地の建設、および基地の腐食と台風に耐える設備、さらに送電や維持管理に要するコストは莫大で、収支が見合うとは考えられない。また、国外の砂漠地帯に太陽光発電施設を建設するとか、宇宙に太陽電池を打ち上げるとかいうような話は、コストを考えない夢物語でしかない。
 他の自然エネルギーもついでに簡単に見てみよう。水力発電は総発電量の8%(2009年)を占め、大型ダムの建設はすでに限界に達している。今後は小河川や用水路などでの100kW以下の中小規模(マイクロ)水力発電が期待されており、全国くまなく設置すればさらに10%の増加が見込まれている。しかし、河川法の制約があって進んでいない。
 地熱発電は総発電量のわずか0.2%(2009年)であるが、火山が多い日本では期待されている。全国的な地熱調査によると、最大限で200万kW(総発電量の約4%)程度が利用可能だが、熱源のほとんどが国立公園内にあって開発が難しいことと、排水による環境汚染、近隣の温泉施設の湯量への影響が懸念される。
 風力発電は総発電量の約0.1%(2006年)であり、陸上の適地にすべて風力発電機を設置すれば、総発電量の10%程度になると見積もられ、さらに海上にも設置すれば同程度の発電量が見込まれる。しかし、風車の低温騒音による健康被害や野鳥の衝突死(バードストライク)が問題になり、設置反対運動も起きている。設置には最低限、環境アセスメント法の適用を義務づけるべきだろう。
 いわゆるバイオマスは、薪などとして燃料として使われることが多い。ゴミ発電や家畜の糞尿から出るメタンを使う発電などがあるが、発電量はわずかである。
 このように、利用できる自然エネルギーをすべて加えても、現在の発電量の約50%が限度で、1次エネルギー供給量の20%ほどにしかならないのだ。さらに、自然エネルギー利用を増やすには非常にながい時間がかかる。
 実際、総合資源エネルギー調査会新エネルギー部会が2008年に出した提言「新エネルギー政策の新たな方向性−新エネルギーモデル国家の構築に向けて−」では、現在のペースで再生可能エネルギーを増やしてゆくとすると、2030年までに7.7%にしかならないと予測している(図3)。そして最大限の努力目標として、11.1%とすることを掲げている。楽観的にみてもこの程度でしかないのだ。
図3 総合資源エネルギー調査会が2008年に出した再生エネルギーの導入目標。
「新エネルギー」は太陽光、風力など。
 現在世間では、太陽光エネルギーをはじめとする自然エネルギーの利用によって、地球温暖化を防げるとか、輸入エネルギーに頼らなくても済むようになるとか、関連する新しい産業が生まれるとか、バラ色の未来が語られている。しかし、正確なデータによって予測すれば、それが願望でしかなく、量的に地下資源エネルギーの代替にならないことは明らかだ。

2.楽観論の前提
 最初に書いた「地球上で利用できる太陽光エネルギーは世界の1次エネルギー供給量の20倍以上」という楽観論には、次のような前提がある。(1)技術的に可能であればコストに関係なく利用可能とする、(2)コストは技術革新と大量生産によって大幅に低下する、(3)原油の値上がりによる設備等のコスト高は考えない、(4)世界平均で考え、世界中どこにでも太陽光エネルギー利用の施設を作ることができ、その出力をどこにでも運ぶことができる、などである。
 筆者が光触媒の研究をしていた頃、研究費や補助金が欲しいがため、申請書に書いていたのと同じ手口なのだ。基礎研究の研究費申請などに書くホラ話はまだ可愛い方で、巨大ダムや橋梁、高速道路や新幹線などの建設では、工事が始まると建設費は数倍にふくれあがり、建設後はまったく採算が合わないという例は、枚挙にいとまがないほど多い。太陽光エネルギー利用でも、国から多額の建設費や補助金が出るとなれば、我田引水の楽観論が横行することになるのだ。
 太陽光エネルギー利用の楽観論には、太陽光の特質や他のエネルギー資源との関係を考えないものが多い。太陽光エネルギーの特質としては、エネルギーとして希薄(エントロピーが大きい状態)なので、動力源となるほど集めるには他のエネルギーを必要とし、大規模化によるコスト削減効果は少ないことである。そして、このような原理・原則的な問題は技術革新で解決できないのだが、楽観論者はどんな困難も不可能なことも、努力すれば解決できると錯覚している。
 さらに、楽観論の根拠となる大規模太陽光エネルギー利用方式は、石油エネルギーを使うことによって設備を建設し維持することを前提にしている。後に書くように、太陽光エネルギーだけ(すなわち電気だけ)では設備を再生産できないから、持続可能ではないことになる。コスト面から考えても、現在の安い石油エネルギーを使って設備の建設をしていても、なおかつ太陽光起源の自然エネルギーは割高であり、補助金や免税で普及をはかっているのが実情である。原油が値上がりすれば建設費はさらに値上がりするだろうし、景気が悪くなれば補助金は出せなくなる。これでは石油が無くなる前に太陽光エネルギー利用設備が普及することはあり得ない。

3.太陽光のエネルギー資源としての価値
 太陽光エネルギーは、バイオマスを除けば、熱か電気にしかならない。太陽光から得られる熱は低温であり、エネルギーとしての価値が低いことはすでに書いたが、電気も万能なエネルギーではない。電気は使いやすく便利だが、貯蔵できないことと、用途が限られていることが大きな欠点である。
 電気は充電池に貯蔵できるように思われるかもしれないが、じつは化学エネルギーに変換しているのであり、変換には損失がある。また、充電池は非常に重量が大きいので、船や飛行機に充電池を積み込んで走らせたり、飛ばしたりすることは現実的でない。
 電気で高温を得るには、抵抗加熱である限り発熱体の耐熱限界に制約される。電気だけでいろいろな鉱石を融解したり、鉄鋼を生産したりすることはできない。抵抗方式以外の加熱は損失がありコストがかかる。
 電気で水を分解すれば、クリーンエネルギーといわれる水素を作れるが、変換にはじつに30%以上の損失がある。水素を燃料とするとき、容積当たりの発熱量が小さいことが最大の欠点となる。水素の運搬や、燃料電池自動車など、水素を動力源とする乗り物のためには、水素を圧縮してボンベに詰めたり、液化する必要がある(水素の液化温度は-253℃)。これにもエネルギーとコストがかかる。水素があれば石油の合成も可能だが、ここにも変換損失があり、コストがかかる。
 ちなみに現在、市販されている水素は石油や天然ガスを原料としているから価格が安い。水素エネルギー推進論者は、石油が無くなった後は太陽光で水素をつくればよいという。しかし、すでにみてきたように、石油が無くなれば太陽電池すら作れなくなるのだ。
 石油は貯蔵できるし、流動性があって取り扱いやすく、容積や重量当たりのエネルギー密度も高く、プラスティックや繊維などの原料にもなる。石炭や天然ガスは、これに比べてはるかに価値が低い。ましてや電気にしかならない太陽光エネルギーは、量的にも質的にも石油代替エネルギーになり得ないのだ。熱にしかならない、したがって電気にしかならない原子力エネルギーについても同様なことが言える。原子力で飛行機を飛ばしたり、原子力で製鉄をしたりするアイデアは、漫画の世界の話である。
 だからといって、筆者は太陽光エネルギー利用を否定しているわけではない。太陽光を含む自然エネルギーをより多く使えば、石油資源を長持ちさせることができるし、温室効果ガスの排出も少なくできる(それですべて解決できるわけではないが)。無駄な道路などを作る公共事業の経費は、自然エネルギー利用の設備に振り向けた方が将来、必ず役に立つ。
 太陽光は熱として利用するのがもっとも効率が高い。古代ギリシャやローマ時代、あるいは石炭使用前の西ヨーロッパのある時期、文明が発展しすぎて森林をすっかり失い、燃料が不足して暖房ができなくなった。そこで人々が考えた出したのが省エネの太陽光利用住宅だった。南向きに家を建てて太陽光を多く取り入れるようにしたのだ。そんなことは今では忘れ去られているが、将来また燃料不足の時代が来ることに備えて、太陽熱利用の住宅を作っておくべきだろう。高断熱の家にすれば、北海道でも太陽光だけで冬も暖かく、暑い地方では夏の室内を涼しくできる。人間は暑くて死ぬことは滅多にないが、凍死することはよくある。石油が安い内に、高くなったときに備えていろいろ準備しておくのは、イソップ物語の寓話を引くまでもなく賢明なことだ。
 自然エネルギーは地下資源エネルギーの完全な代替にはならないが、地下資源エネルギーを使い始める以前、人類は自然エネルギーですべてをまかなっていたのだ。自然エネルギーだけでの生活は、原始時代のような生活になると考える人がいるが、そうではない。日本の江戸時代の文明は、当時としては世界最大の100万人規模の都市を抱えながら、ヨーロッパ文明のように森林を失うことなく、自然エネルギーだけで持続した。江戸時代は現在より不便で、必ずしも快適な生活ではなかったが、それで人々が不幸であったわけではない。それは、歌舞伎や浮世絵など、世界に誇ることができる文化を築いたことからもわかる。
 最近、ブータンが国民総幸福量の増加を政策の中心としていることが注目されている。GNP(国民総生産)のような物質的な指標が必ずしも人間の幸福につながらないからだ。ブータン国民が、石油文明国の国民よりはるかに不便な生活をしていても、幸福度が高いのはなぜかを考えてみるべきである。
 現代の経済は、安価な石油エネルギーを大量に使うことで巨大化し、常に経済成長していないと景気が悪くなるという、麻薬におぼれたような経済構造になってしまった。石油などの地下資源エネルギーは有限なのに、経済成長がいつまでも続くはずがない。石油が無くなることを考えずに、経済成長を続けてゆくとやがてカタストロフィー的な破綻が訪れるに違いない。このような経済構造は、そろそろ考え直すべきときではないだろうか。


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